わびさびつくひび。

ことば、おと、しょく、たびなど。

行くメン、行けメン。

ぼくは、イクメンでもないし、イケメンでもない。これは自他ともに認める事実だ。でも、ぼくは、旅行や出張など、今いる場所からどこかへ行くのは好きだ。行く前の準備も行く途中の時間も行った先の出会いもすべてひっくるめて、「行く」ことが好きだ。

 

広告やキャッチコピーでも「行く」や「GO」は多用される。

 

JR東海のあまりにも有名なコピー。

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そうだ 京都、行こう。(C:太田恵美)

昨年で25周年を迎え、今年も続いている長寿キャンペーン。ぼくは特にポスターのボディコピーと写真の世界観が好きで、ほんとに京都へ行きたくなるし、一昨年は、思いつきで数回足を運んだ。新幹線は使ってないけれど。

 

JR東日本のコピー。

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行くぜ、東北。(C:一倉宏/坂本和加)

こちらは、震災後の東北地方を元気づけるにふさわしいことばのチョイスがなされている。出演する松岡茉優がかわいい。

 

今年、秋に東京で開催されるゴッホ展。専用ウェブサイトのURLは、

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go-go-gogh.jp

ゴッホは英語でゴオゥと発音するので、すごくゴロがよい。

 

そして何より、最近お気に入りなのは、

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パンテーンの広告。

白髪を染めない決意をした近藤サトさんと髪がふさふさの女の子を使っている。特にハッシュタグ

Hair We Go (さあこの私で行こう)

は、ダジャレではあるけど、自分らしく行こうとするメッセージが伝わる。

 

イクメンやイケメンは無理でも、行くメンや行けメンで行こう。

 

 

飲んだら乗るな、乗るなら飲むな。

学生時代や独身のころ、洋楽のCDを買いあさっていた。新譜も中古も手当たり次第。視聴して買うこともあれば、ジャケ買い、名盤紹介の本を見て買うこともある。

そんなぼくの当時の戦場は、タワーレコードだった。HMVとかVergin Mega StoreとかCiscoとか他にもあったけど、黄色と赤の袋を持ち歩くのは、邦楽なんて聞きませんよと斜に構える僕にはピッタリだったし、クリスマスシーズンの白を基調とした期間限定の袋もかっこよかった。だから、テンションが上がる場所は、いつもタワレコだったのだ。

ちなみに、金沢のヤマチクというレコード屋さんが、タワレコと同じ字体でYAMACHIKUと書かれた黄色と赤の袋を使っていたのをみたときは衝撃だったなぁ。

 

タワレコの象徴でもある、

NO MUSIC,  NO LIFE.

いつみても、音楽好きのこころをゆさぶる名キャッチだ。この「NO なんとか、NOなんとか」という表現は色々応用が効くフレーズでもあり、最初に入る言葉がなくてはならないということを最大限に強調できる。

たとえば、

NO ART, NO LIFE.

NO SPORTS, NO LIFE.

NO 大野くん, NO 嵐.

などなど。

 

最近のTwitterで、思わず笑ってしまった標識があった。

NO DRINK NO DRIVE

その上には「飲酒禁止」とある。

これ、「酒飲まねぇと、運転なんかできねぇ」という飲酒運転をすすめる逆の意味の標語になっちゃってる。野球のノーヒットノーラン的な感覚で訳しちゃったんでしょうね。これは和製英語だけれど。

正しくは、

DO NOT DRINK AND DRIVE.

でしょうね。これみて飲酒運転しちゃうひとはいないだろうけど、書いちゃった人が気づいたら、酔ったように顔を赤らめているかもしれない。

順風逆風。

サラリーマンを長く続けていると、というか同じ会社で長く過ごしていると、そこでどう過ごしたらよいのか、どう振る舞ったらよいのか、原始的なAIみたいに少しずつ学んでくる。ディープラーニングというより、ロングラーニングみたいに。

 

仕事を覚えてきた時期とか、自分が一番知っている仕事を任せられた時期なんかは、基本柔らかいけど、とんがってたなぁ、なんて思い返すこともある。

 

したいことを否定されるとイヤな気分だし、したくないことをやらされていて認められるのも、しっくりこない。したいことを後押しされるのはうれしいし、したくないことをやらされていて中止の判断が下ったとしたら、助かる。

 

サラリーマンという稼業は、順風と逆風の繰り返しだ。自営業でも無職でも専業主婦でも学生でも同じだとは思うけれど。

 

追い風がほしいと人は言う。

でも強いと違う方向とか意図せぬスピードで不時着しちゃうかもしれない。

 

向かい風はいらないと人は言う。

でも弱いと風呂上がりの扇風機みたいに、気持ちいいんじゃないか。

 

フォローが善、アゲンストが悪ではない。スキージャンパーは、アゲンストがないと遠くまで飛べない。風向きとか風の強さを感じられる「風に吹かれて」センサーを身につけ、風を味方につけるのが大切なんでしょうね。

結婚相手は誰だ?

先日の飲み会で、既婚または独身の若い子達を中心に結婚する相手をどう選んだのか、結婚したあとどんな存在になるのか、話をしていたようで、一応人生の先輩でもある僕が呼ばれ、意見を求められた。

ぼくは結婚して20年以上になるけれど、高校を卒業して実家を出たので、妻とは、両親や兄妹と実家で暮らしていた以上の月日を家族として過ごしていることになる。

お互い健康である限り、この関係は続くよなぁなんて思いながら、その場しのぎで答えていたが、酔っていたのもあり、あんまり覚えていないのだけれど、今振り返ると、結婚相手をこんな風にとらえているのかな、と思った。

・世界で一番信頼できて、自分のことを世界で一番信頼してくれていると信じられるひと。

好きとか愛してるとか、恋人感覚とか全くないわけではないけれど、なんかそういうことだけで片付けられない人生のよきパートナーみたいな感じなのかな。

***

Twitterで、ある方が結婚に関するいくつかのキャッチコピーを紹介していて、おもしろかった。(最後のゼクシィはかなり世の中で共感を得ていたコピー) 

 

ひとりで生きていけるふたりが、

それでも一緒にいるのが夫婦だと思う。

Tiffany & Co(2000年)

 

結婚しなくても生きていける。

そんなあなたは結婚しても生きていける。

オーネット(2011年)

 

ひとりでも生きられる時代だから

ふたりで生きたい、と思った。      

ツヴァイ(2016年)

 

結婚しなくてもても幸せになれるこの時代に、

私は、あなたと結婚したいのです。

ゼクシィ(2017年)

こだわりは一瞬。無頓着は一生。

日本人あるあるだけれど、会社の同僚と血液型の話になった。だれだれはA型っぽいけどO型だ、やれ、O型は短気だとか(初めて聞いたけど)、B型は変人が多くて、すぐわかるとか。もちろん4つのタイプで性格なんてきまるもんじゃないことは、みなわかっていながら、持論も一般論も含めて、あーだこーだ言うのである。

 

僕はB型だ。

学生時代から僕をよく知るひとや僕をそれなりに深く知ってるひとは典型的なBだという。人の話を聞かないマイペース、マイナーなことにこだわる、自分が一番好き、などなど。

一方、会社ではそれはそれはサラリーマンとして滅私奉公的に日々過ごしているのもあってか、B型のようにみられていなかったらしい。うれしいような悲しいような。

まあ、これは気をつけてないとすぐにタガが外れてしまうだけのことで、やっぱり僕はいわゆるB型気質なんだと思っている。好きになったり、こだわったり、気にしたりしても、すぐにその灯火は消えて、というかどこかにしまいこんで、あとの長い時間は無頓着になる。このしまいこんだまま整理されずにたまっているものが今の僕をつくっているし、この先の僕をつくっていくのでしょうね。

 

シーンとした会話。

三連休をゆっくりと過ごしている。実際には金曜日も有休だったので四連休だ。年末年始の連休はもっと長かったけれど、大掃除やら年賀状やら実家への挨拶やらで休みというよりは仕事ならぬ私事であっという間に過ぎてしまう。その点、いまはホントの冬休みという感じで、寝正月を取り戻しにかかっている。

 

長く家ですごしていると、長い付き合いの嫁との会話がもたない。お互い好きなことをしながら、必要最小限の声かけでほぼ一日が終わる。ほかの夫婦はもっと会話があるんだろうな、なんて思いながら、これはこれで心地よいわけだし、でも子供が独立したら、ふたりでどんな生活になるんだろうとか、少しの不安もなくもない。

 

糸井重里さんと歌手の岡村靖幸さんの対談をみて、話さなくてもいい幸せのカタチってあるんだなと思った。

糸井さんは、独身の岡村さんに結婚はいいよ、と勧める。それは好きな食事を夫婦無言で食べられるからだと言う。友人や同僚との食事は、どうしても気をつかって会話をしながら過ごさざるを得ないけれども、夫婦間では言葉なしに純粋に食事を楽しめる。だから、結婚はしあわせだと説くのだ。

 

沈黙は金、雄弁は銀、という言葉があるように、静かな食卓にも、会話のない夫婦にも、ことばにはならない信頼とか安心の空気があるのだろう。シーンとしてるのも会話なのかもしれない。物言わぬ食卓を楽しみたいな。

平成さいごでもなく。

新年明けましておめでとうございます。穏やかな2019年の始まりに、新たな時代へと向かう大きな期待とちょっとの不安を抱きながら過ごすお正月です。

 

昨年の夏から今年の春にかけたイベントや行動は、すべて「平成最後の」という枕詞のもと、価値あることのように、うやうやしく語られていますが、冷静に考えると平成が計画的に終わるだけで、ぼくたちの生活は、たんたんと始まるものは始まるし、終わるものは終わるわけです。

昨年は新しく始まったこともたくさんあった一方、あたりまえと思っていた大事なものが終わった年でもありました。たぶんこれからもその繰り返しなんでしょうね。平成であろうとなかろうと。

 

新年になると、目標をたてたり、抱負を述べたりするけど、年末にはすっかり忘れていたりします。これは決して意思が弱いとか、そうゆう訳じゃなく、環境変化が予想以上に早かったり、予想外のことが現実になったりして、年始のころの自分とは明らかに変わらずにはいられないことになっているから、陳腐化しちゃってるんだと思うのです。

 

今年一年は、

小さすぎるものは少しでも大きく、

大きすぎるものは少しでも小さく。

を実現できるようにしたいな、と思います。小さいものはアイデアをふりしぼって成長させなきゃいけないし、大きいものはアイデアをふりしぼって本質に光をあてないといけない。たぶん今年のというよりは、これからも続けなくちゃいけないことなんだろうな。

実り多き一年になりますように。