店ズベリ。
友人を誘って飲みに行く機会は多い方ではあるけれど、二軒目をスムーズに案内できるほど、行きつけのお店があるわけでもないし、少人数ならまだしも、そこそこ人数がいる場合は、ノーアイデア状態になってしまう。こういうとき、とっさにあの店にしようかとか、すぐに案内できるひとがいて、そういうひとはホントに尊敬に値する。
今、好きなドラマは光石研さん主演の「デザイナー 渋井直人の休日」だ。実力もあり有名デザイナー渋井。しかし、プライベートは冴えない男やもめの50代のおっさんのストーリー。
インスタのフォロワーである初対面の20代女性からの食事のお誘いに意気揚々と出かけるものの、どこにいってもお店が満杯で入れない。一時間近くさまようものの、ぜんぜん見つからない。渋井はこれを「店ズベリ」だという。
予定していたお店に入れず思考停止に陥ってしまうという、造語ではあるけれど、なんとなく自分にも起こりそうな感じがしたのもあって大笑いしてしまった。
店ズベリという表現が特別うまいと思ったわけではないけれど、あるある系の状態に名前をつけると、腑に落ちる感覚になるから、ことばは大切なんだなと思う。ひとだって勝手に名前をつけられているけど、名前があるからこそ人物がイメージされる。名前がないといつも特徴を説明しないといけない。
さて、僕のあるあるで、
・弁当持参なのに、無意識のうちにいつものコンビニでお昼を買ってしまう
・ボディーソープに変えたのに、今まで使っていた石鹸を手にとってしまう
みたいな状態にも、名前をつけたいが、なかなか思いつかない。名前をつけて汎用的にするより、そもそもこうならないように集中して過ごさないといけないかな、なんて思う。
てきぱきっちん。
つくれる料理は目玉焼きくらい。それ料理ちゃうやん、とツッコミが入るシーンが思い浮かびそうだけど、ぼくの場合もそれに毛が生えた程度のことしかできない。できないというより、面倒だしとか、マズイものできちゃったら残念な気持ちになっちゃうし、高い食材ばっかり買ってエンゲルが半端なくなっちゃうかもしれないし、などと言い訳を考えながら、メイン料理に関しては男子厨房に入らずを続けている。
料理人の調理工程は見ているだけで圧巻だ。段取り、並行作業、時間や温度や味付け管理、盛付けなど、そのひとつひとつの所作が美しい。静かに黙々と大将がつくるようなお店も悪くはないけど、ぼくはシェフをトップとしてスタッフが自律的にあるいはシェフの的確すぎる指示に的確に反応し、ひとつのチームとして有機的に結合する瞬間や料理人の真剣な眼差しをみるのが好きだ。料理が完成し、サーブされるときに見せる優しい表情や注文を受けるときの柔らかい笑顔、そしてまた緊張感いっぱいの表情にもどる、これらを含めて美味しいと感じるんだなぁと思う。
ここはそんな場所です。
カウンターにはいつも発見がある。
“クロッキオ”
https://www.google.co.jp/amp/s/s.tabelog.com/hokkaido/A0101/A010103/1033822/top_amp/
人生は、だまし絵だ。
この絵、なんと書いてあるかわかりますか?よくよく見ていくと、文字が浮かびあがり、あ、わかった!となってからは、もうその文字しか見えなくなる。脳がそう認識しちゃうんでしょうね。
久しぶりの仙台だというのに、北海道としてはそこそこの雪で、空の便が混乱するまでもないくらいのはずなのに、選んだ便だけが早々と欠航… 次の便まで空港のラウンジで長いこと過ごしていたわけだが、そこで、昨年ひょんなことから知り合いになった人をを見かけた。お互い存在は認識しあっているけれど、深いお付き合いでもない。僕のほうは、SNSで活躍ぶりを見ているおかげで、不思議によく知っているような錯覚に陥っている感じ。
一旦知り合いになると、意外な場所とか、通勤途上とか普段よく場所で遭遇する、あるいは見かけることがよくあるような気がする。でも、これって出会う前から、そんな場所で、すでにすれ違っていたりしていたんだろうな。知らないから、知らない人として通り過ぎていただけのことなんだろう。なんか、こう考えると人生の風景は、未来に出会うべき人、出会う可能性のある人、運命を変えるほどでもない人、そんな人々が自分には見えないだまし絵みたいなものだ、と思う。
ぼくたちは、だまし絵の中で生きている。
*冒頭のだまし絵にはLIFEと書いてあります。
水があうところ。
東京だけでなく、地方都市にも仕事に行くことがある。その土地その土地の雰囲気、方言、食べ物など楽しみ方はたくさんある。また来たいなとか、住むのはちょっとなとか、いろんなことを考えたりするのも楽しい。
なぜだかわからないけれど、ぼくにとって、はじめて会ったのに昔からの知り合いのように仲良くなるひとみたいな場所がある。
富山だ。
富山は古くは北前船、新しくは北海道銀行と北陸銀行の経営統合など、人的にも経済的にも北海道とのかかわりが深い。それだけが理由ではないとは思ってるけれど。
仕事なので、実はちゃんと観光したことはない。富山駅近くをぶらぶらしたことがあるだけ。でも、食べ物を中心に、空気感とか、なんだかしっくりくる。
ホタルイカはイカのいいところがぐっと凝縮していると思うし、白エビは上品だし、かぶら寿司は漬け物の女王だと思うし、玉天は和風マシュマロだし、鱒の寿司や笹寿司は朝ごはんにもぴったりだし、名産も金沢とごっちゃになっちゃってるし、氷見のブリは高くて食べたことないし、大喜のブラックラーメンはしょっぱすぎて完食できないし、と止まらなくなるほど魅力が出てくる。
いわゆる、水が合う場所なんだろう。水が合うならお湯も合うんだろうな、なんてことを富山きときと空港の一角にあるウォーターサーバをみながら思うひとときだった。
***
ソラトヤマという県内の6メーカーが集まって航空機部品を富山から送り出すプロジェクト。立山連峰と飛行機雲をデザインしたシンボルマーク、「空」と「山」を連想するネーミング、どれもシンプルでよいですね。こういう発見も旅の楽しみです。
こころにも換気を。
名古屋でのできごと。
地元の会社の方々が、飲み会のあとに〆ラーメンならぬ、〆あんかけスパに連れていってくれた。
1軒目のお店に入って7〜8名ほどで着席。ほかにお客はいない。なんか、不穏な空気が広がっている。おばちゃんと料理人ふたりで切り盛りしているお店のようだ。おばちゃんの態度もなかなか横柄で少し気にはなっていたのだけれど、注文もなかなかとってくれない。
すると、厨房に立つ料理人が、激昂している。予約なしで入ってきたのが気に入らないのか、酔って入ってきたのが気に入らないのか、もう閉店したかったのか、マジ切れの様子。
これでは埒があかないと、みんなでそそくさと退散。退店間際に、おばちゃんに何かあったのでしょうか?とたずねると、お店の換気の調子が悪く料理人がイライラしているとのこと。
とばっちりを受けただけということなんだけど、マジ切れしちゃうほどあんかけスパには換気が大事なんだろう(そんなわけないけど)。
こころにも換気を。
が大事ですね。
スパらしきかな、あんかけスパ!
(2軒目でありつけました)
北海道産かお。
東京でのできごと。初対面の方々との懇親の席で、向かいに座る吉岡里帆似の女性から突然、北海道顔ですね、と言われた。えっ?どんな顔やねん、と思うまもなく、となりのキートン似の男性も北海道に住む親戚に似ていて、北海道顔ってあるんですねと納得しながら言う。ぼくの特徴のひとつである色白を言っているのか、本州とは異なる顔立ちにみえるのか、結局はよくわからなかったけれども、そんなことを言われたのは初めてだったので、なんだか不思議だった。
たしかに、濃い目の沖縄とか九州っぽい顔立ちはあるといえばあるし、美人が多い地域とかそうではない地域も傾向があるような気もする。ある地域を代表する顔というのはあるものなのかもしれない。
ぼくは、両親も北海道出身だし、北海道うまれの北海道育ちだ。遺伝的にも環境的にも生粋の道産子なので、気付かぬうちに北海道的な顔になっていたのかもしれない。これって自分では標準語を話してるつもりでも、東京のひとからは北海道弁ですね、と言われてしまうのと似ている気もするなぁ。まあ、突然、群馬顔(馬面みたいに聞こえる)とか山形顔(オニギリ型の顔を想像する)、高知顔(知ったかぶりしてるみたい)とか出自と関係のない顔と言われるよりは、いいかなと思っている。
未来のぼくへ。
5年後、ぼくはどこで何をしてるだろうか?
10年後は? その先は?
健康でさえあればとも思うし、もっと幅が広がっているひとであれば、とも願う。多くを望むわけでもないが、小さなことには欲張ってるのかもしれない。
タイムカプセル郵便というサービスがあるらしい。未来の自分に向け、現在の自分が、今を見つめながら、未来を予想したり、期待して手紙を書くのはステキだなと思う。自分だけでなく、家族にあてるのも粋だ。成人する息子あてに父親から突然届くメッセージは心に届くものになりそうだ。
最近、出張やらなんやかんやで飛行機を使うことが多いのだけれど、気圧の変化に対して、耳のはたらきが悪く、着陸態勢に入ると耳の中がキーンとなったり、耳抜きができないまま降機することがあるので特別な耳栓だったり、飴の入った袋を座席のポケットに必ず入れている。モノ忘れをすると自覚してきたぼくは、飛行機に乗るやいなや、iPhoneのリマインダーに着陸時刻を見越して「忘れもの注意」と登録するのだ。
これからもぼくは未来のぼくに手紙を書き続ける。1時間後かもしれないし、30分後かもしれない。1分後はさすがにないけど、今より先はぜんぶ未来なんだから。