わびさびつくひび。

ことば、おと、しょく、たびなど。

それでも水は流れる。

空港のトイレに入ると、「人がいなくても、水がながれることがあります」というシールが貼ってある。女性は馴染みがないかもしれないけど、男性用の小用には、こんな表示があるのです。

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なんとも日本らしい配慮という感じもするけれど、無人の便器に水が流れると、びっくりしてちびっちゃう人がいるのを心配してか、それとも水がもったいないじゃないか、というクレームを心配してか、でも、そこまで気にしなくてもいいのに、と思ってしまうなぁ。突然ウォッシュレットから水が飛び出したら、それはびっくりだけどね。

 

用を足しながら、そのメッセージを読んでいたとき、ふと、これは「地球から人類が滅亡しても、それでも水は流れる」と、哲学的な意味を持つ感じがしてきた。

 

ことばというのは、すぐに理解できるものもあれば、なかなか理解できないものもあるけれど、わかりやすく表現しているのに、実は深い意味を内包していると、匂わせることばを見つけてみたいなと、用を足しながら考えるのです。

雨のち晴れのつぎがだいじ。

やっぱりというか、風邪をひいてしまった。ノドが痛いなと思って、早めに薬飲んで、マスクして出社して、翌日よくなったと思ったら、一日置いて、ノドいがいが、咳や鼻水といった風邪の症状のオンパレード。この状態で出張とは…

 

風邪との付き合いも、ヒトとの付き合いと似ている気がするな。少し関係が悪化して、修復しようと努め、少し改善されてホッとひと息ついたら、またというか、さらに悪化しちゃう感じ。

 

よくないことが、少しよくなった瞬間こそ注意しなくてはいけないタイミングかもしれないね。なにごともすぐに安心してはいけないと楽天家なりに考える今日このごろです。

 

そう言えば、株式市場にも同じことが言えますね。大暴落な市場にもこの思いが重なるな。

オン ザ ロックンロール。

数年ぶりぐらいだろうか、ロックを生演奏してくれるバーへ行った。今回はリクエストすることなく、他のお客さんのリクエストやバンドチョイスの曲をひたすら聞いていた。

 

イーグルスのTake It Easyを聞くと、またライブに行きたいな、でもグレン・フライの声はもう聞けないし寂しいな、とか、

 

レイラ後半のピアノパートを聞くと、大学のキャンパスをひとり歩いてると、どこからともなく軽音部の奏でるレイラが流れてきて、入学時のちょっとした不安を洗い流してくれたな、とか、

 

歌詞はめちゃくちゃだけど一緒に口ずさみながらクイーンメドレーを聞くと、教授秘書の女性がフレディのお墓参りにイギリスに旅立ったな、とか。

 

本家の音をストリーミングで聞くのとは、また違う感じ方があるのですね。生音は記憶とか感情とかを呼び起こす触媒みたいだな。

 

今日はロックを聞きながら、水割りを飲んだ。

今度はロックを飲もう。

 

うらおもてなし。

うらおもてのない人でありたいと思ってはいるものの、すべてをさらけ出すことはしたくないし、ホンネをいつもぶちまけられるほどの勇気も持ち合わせてはいないので、なかなか難しいなぁと思っている。それでも、最近、公私ともにわりと素直にふるまうことができているようにも感じている。おっさんになって、厚かましさが増幅しただけかもしれないし、僕と関わるひとがどう受け取っているかもわからないけど。

 

あるバラエティ番組でオードリー・ヘップバーンの名言が取り上げられていた。

「愛らしい瞳のためには、人のよいところをみること。」
For lovely eyes, seek out the good in people.

 

僕自身、ある人の悪いところ(嫌悪感とか生理的にイヤみたいな類)が目に入ったら、ある人のいいところをわざわざ持ち出して、組み合わせてみて、どう感じるかで最終的にいいのか悪いのか判断することにしている。こうすると、だいたい、いいところが勝るんじゃないかと経験則的に思っている。オードリーのいうラブリーな目ではないけれど、視点を複数持つことは、ラブリーな見方なのかもしれない。

 

ヒトでもモノでもコトでも、必ずA面とB面がある。あるひとはA面を見せながら生きているし、このひとはA面だよなと思ってつきあっても実はB面だったり。LPレコードみたいに曲名が書いているわけではないので、判別はむずかしい。Joni MitchellのBoth Sides Nowの歌詞のように、どっちからも見てたつもりだけど、結局はわからん、でよいのかもしれないな。こんな捉え方も含めて、うらおもてなく、生きていきたいな。

 

Rows and flows of angel hair
And ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere
I've looked at clouds that way

流れるように美しい天使の髪や
アイスクリームのお城がフワフワと浮かんでいて
羽毛に覆われたような谷がどこまでも続いている
わたしは、そんな風に雲を見ていた

 

But now they only block the sun
They rain and they snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way

だけど、雲は太陽を遮り
人々に雨や雪を降らせ
わたしがやろうと思っていたたくさんのことも
雲によって閉ざされた

 

I've looked at clouds from both sides now
From up and down, and still somehow
It's cloud illusions I recall
I really don't know clouds at all

わたしは今、その両側から雲を眺めてみる
上から見たり、下から見たり、でもどういうわけか
それは幻の雲の記憶で
わたしには雲のことは何もわからない

 

からをやぶろう。

ここんとこ、会社の仲間たちと飲む機会が多く、また飲む時間も長く、体力的にはかなり消耗気味。

僕の酔い方は、だんだんとテンションが上がり、本音トーク率や下ネタ率が上がり、家に帰ろうスイッチが効かなくなり、お金を払ったか記憶があいまいになり、眠りが浅いまま朝を迎えるパターン。

 

飲み仲間の中に、次行くぞと息巻いて、でもひとりで帰っちゃって、さらに記憶が抜け落ちてしまうひとがいる。彼は必ず、「俺、何やってるんだか。」と後悔をにじませながら、翌日語るのだけど、それって本音は違うんじゃないかなと思っている。

 

自分の社会的に許容される範囲は超えないけれど、ギリギリのところまで行っては戻る、少しだけ冒険する勇気を得て行動するみたいな感じだろうか。

 

お酒の力をかりなくても、「俺、何やってるんだか。」と思うことは、いくつになっても必要なんだろうな。自分の殻を破らないようにせっせと拡張するより、ひびが入ったくらいで修復して、強靭にしていきたいな、と思う秋の日です。

ピキピキッ。

おもしろ、ほんやく。

洋楽好きの僕にとって音楽を聴くのはもちろん楽しみなんだけれど、曲名がどう和訳されているかも楽しみである。

例えば、

ビートルズのThis Boyは「こいつ」。

また、A Hard Days Nightは「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」。これは、レコードをたくさん買ってもらうためのキャッチコピーにも近いかも。

さらに、ザッパ師匠のNo Not Nowにいたっては、「いまは納豆はいらない」…  もう、ソラミミの世界であり、震災の影響で納豆が品薄になっている北海道への曲にも思ってもいいくらいなんでもアリなのだ。

面白い邦題は枚挙にいとまがないので、これくらいにしておくが、先日東京で訪れたアドミュージアムで開催された2018年の東京コピーライターズクラブで受賞したキャッチコピーの英訳もなかなか面白かった。

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GODIVAのバレンタイン時期の新聞広告、「日本は、義理チョコをやめよう。」

英訳は、Keep the chocolates only for the one you love.

義理チョコという日本独特の習慣を英訳するのは難しく、英語ではあたりまえな言いっぷりになってしまっている。

 

続いて、カップヌードルのTVCM「アオハルかよ。」

英訳は、Enjoy your youth.

青春と言わず、あえてアオハルとしたコピーも英語では、そのニュアンスまでは伝えきれていない。

 

ここまでは、英語では伝わらないシリーズ。

 

さて、一方、マクドナルドのベーコンポテトパイのアツアツ感を表現した「ヘーホンホヘホハイ」。

英訳はHahon Hohaho Hieだ 。(これを英訳と言っていいか正直わからないけど)

Bacon Potato Pieの子音を全てHに替えたこの英訳は、熱くてちゃんとしゃべれない感じが英語圏の人に伝わるかもしれない。

 

キャッチコピー は日本語のことば遊びやレトリックが使われる表現や日本独自の文化、習慣、常識を前提とした表現が多いし、語数も少ないから、英訳者の方々、お疲れ様です。(「お疲れ様」も英語で表現がむずかしいもののひとつだったりするんだけど)

じゃあね、おっさん。

バスの窓側の席に座っていると、通路側は空いているのに、避けるようにとなりにだれも座ってこない。

少しだけ混雑した地下鉄で、近くの女性(年齢は幅広)が、すっと離れていく。

逆自意識過剰なのかもしれないし、必然なのかもしれないのだけれど、僕の身にもしばしば起こる。

 

ネット記事によると、アメリカの大学の実験では、男女問わずどんな年齢の人でも「より若い女性と身体をくっつけたい」と感じて、「より年をとってる男性とは身体をくっつけたくない」と感じるという結果だったそうだ。

確かに、おっさんの僕自身だって、他のおっさんの息がかかる距離で満員電車を過ごしたくはないし、飛行機の隣の席に汗だくだくのおっさんが座ってくると、なんだか損をした気分になる。

 

おっさんは、ウザい。

僕は、おっさんである。

ゆえに、僕はウザいのだ。

(演繹法的にそうなる)

さらに、先の実験結果によれば、年を重ねれば重ねるほど、他人との距離をより長く保つ必要があるということになる。

それを自覚しているだけでも、老若男女を問わず、厚かましさとか、説教グセとか、下ネタとか、昭和あるあるとか、あの頃はこうだったネタとか、今の若いもの否定論とか、オヤジギャグとか、いろいろと気をつけることができるのではないかなぁ、なんて思っている。

 

ソーシャル経済メディアNEWS PICKSのキャッチコピー、「さよなら、おっさん。」。

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このコピー、直感的にあまり共感できるものではなかったけれど(ここでのおっさんは、日本のタテ型社会のメタファー)、おっさんの現実に気づいた今、はからずも何かを感じずにはいられない。

とはいえ、やはり「さよなら」はキツイなぁ。「ようこそ」まで優遇してほしくもないけど、「じゃあね」くらいの、元気でね、というニュアンスが含まれる感じがいいなぁと、おっさんは思うのです。