わびさびつくひび。

ことば、おと、しょく、たびなど。

ややこしや、ブリューゲル家。

札幌芸術の森美術館で開催されている、ブリューゲル展(画家一族150年の系譜)を鑑賞。

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僕はオランダが絡むと、たいてい脳内のお気に入りフォルダに入れてしまうため、フランドル派ブリューゲルも、もちろん好きな画家のひとりだ。(実際には今のベルギーあたりで活動してたんだけど)

 

去年は大阪で、ロッテルダムのボイマンス美術館所蔵のバベルの塔(いわゆる小バベル)を久しぶりに観ることができた。

 

今年は札幌にもブリューゲルがやってきた。今回のはブリューゲル一家4代の絵が一堂に会し、また私蔵品のため普段はなかなかみられない作品が多いのが特徴だ。

 

バベルの塔はもちろんのこと、ネーデルラントのことわざ、雪中の狩人などで有名な、いわゆるブリューゲルが1代目のピーテル・ブリューゲル

 

さて、ここからが、ブリューゲル一族を知るうえで、ややこしや、となってゆくところだ。

 

彼の長男の名はピーテル・ブリューゲル(2世)

次男はヤン・ブリューゲル

 

長男は、父と同じ名前であるばかりか、父の作品の模写を多く残した画家。

名前も作品も一緒。ここがひとつめのややこしやポイント。

そして、彼は長男にも、ピーテル(3世)と名付けたものの、三代目まで模写では生計をたてられなかったか、画家ではなかったようだ。

 

一方、次男のヤンは、花のブリューゲルとも呼ばれ、多くの静物画の名作を残した。

そして、彼は長男をヤン(2世)と名付けた。ヤン(2世)も、画家ではあるものの、やはり父の模写を中心に生計を立てていた。

ここも、ややこしやポイント。

 

そして、ヤン(2世)は、長男をヤン(3世)ではなく、なんとヤン・ピーテル・ブリューゲルと名付けた。

ここも、ややこしやポイント。

長男に、ブリューゲル一族の全てを注ぎ込む名前をつけてしまったためか、次男をアブラハムと名付けた。長男も次男も画家として活動。

 

ブリューゲル知ってる?、とだけ言っても話が噛み合わないこともあるので、注意しないといけないですね。

ややこしいけれど、150年も一族で画家という職業を継承したのは、すごいことだなと思う。

ひそカニそらをとぶ。

網走の春カニ合戦と呼ばれるお祭では、豆まきのように、毛ガニが宙を飛ぶ行事があるらしい。

ミソが飛び散ったりしないかな、とか、キャッチするときトゲトゲでケガしないかな、とか、いろいろ心配になってしまう。

なんとも北海道らしくもあるが、受け止められず、地面に落ちてしまったカニはかわいそうな気もする。

 

今日、大通公園オータムフェストで、ズワイガニの甲羅焼きを買ったのだけれど、持ち帰りでお願いね、と頼んだら、お店の若いお姉ちゃんが、「カニ2個、テイクオフで」とおっしゃった。

すかさず、カニを焼くお兄ちゃんが、「テイクアウトだろ」とつっこみを入れ、まわりにも笑みがこぼれたけれど、実は彼女だけが知っている、渡り鳥のように飛んでいく、渡りガニの存在を知っているのでは、ないかと勘ぐってしまった。

 

ちなみに、ウトロの水産会社、ヤマヤ北翔丸水産さんのポスターには、「毛蟹、翔ぶ。」というコピーがあるくらいだから、やっぱりカニは飛ぶんじゃないかな、とひそカニ思い始めている。

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コオドリ、オオドオリ。

札幌の大通公園では、年明けから、

2月、雪まつり

5月、ライラック

6月、YOSAKOIソーラン

7月、ビアガーデン

9月、オータムフェスト

12月、クリスマス市とホワイトイルミネーション

と四季折々のイベントが開催される。

 

中でも僕はこの時期のオータムフェストがお気に入りだ。

震災で開催が危ぶまれたけれど、なんとか8日遅れで開催にこぎつけることができた。

 

オータムフェストは北海道内市町村の食のオールスターゲームみたいに、北海道グルメを一気に堪能できるのが魅力。

 

紋別カニ甲羅焼きとカニミソ焼きを、購入し、今日のアテに。

 

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食欲の秋をそのままに、公園内の人だかりをみると、小躍りしたくなるくらい、元気をもらえる。

 

この時期の大通公園は、

コオドリ、オオドオリ。がふさわしい。

おおにぎり、こにぎり。

北海道の震災から数日後の会社の昼休み。

僕の昼食は、妻がつくったおにぎりだった。

いつもは会社の近くでランチしたり、コンビニでお弁当を買ったり、妻のつくった弁当だったり、バリエーションを楽しむのだけれど、震災でお店の食材が不足していたから、おにぎりで凌ごうという状況だったのだ。

 

とても美味しかったけど、平均的なサイズの半分よりちょっと大きいくらいの控えめなサイズが二個だったので、夕方には案の定、お腹が空いてしまった。

帰宅後、もう少し大きめがいい、もしくは、今日のサイズを三個にしてほいしと、 とてもとても控えめにお願いしたのだけれど、返ってきたこたえは、「明日にならないと、わからない」だった。

 

翌朝、目が覚めると、結果は、大きめが二個だった。

 

なぜ、大きさが一定にならないのか、

なぜ、サイズを事前に決められないのか、

真相は闇の中だけど、「おにぎり」には、 「おにぎらず」にはない、ひとの気持ちも一緒に、にぎらずにはいられない作りかたがあるのかもしれない。

 

おおにぎり、の日もあれば、

こにぎり、の日もある。

 

おにぎりには、具だけでなく、大きさにも意味があるのだ。きっと。

プチプチ効果。

遅めの夏休みをもらったのだが、息子の宿題の監修のため、外出もせず、起きたままの状態で過ごしている。明らかに昭和世代より、宿題の量も質も上回っていて、大変だな〜今の子供たちは、なんて、のんきにとらえているんだけど。

 

そんな生活のため、ヒゲもそらずにいるわけだが、スキマ時間に気分転換や集中力を高める術を発見した。

 

伸びたひげのトリミングだ。のびているといっても、たかが1日2日程度なので、数ミリのひげをチョキチョキというよりは、プチプチ切っていくだけの話。よくみると、白いひげエリアと黒いひげエリアにしっかり分かれているじゃん、とかこのエリアは密度低いな、とか普段、電気シェーバーで一気に剃ってしまう時とは違う発見ができる。いつも車で通る道を歩いてみると、新たな発見があるみたいに。

 

もっとすごいのは、一本一本を切る時、手に伝わる感触と、プチッ(あるいはパチッ)っていう音。ケガしないよう集中し、プチッを聞いてはいやされる。その繰り返し。

 

これは気泡シートの通称プチプチをつぶすのと同じ効果があるような気がする。プチプチには学術的にも気分を落ち着かせる効果に加え、覚醒させる効果もあるようだ。

 

スイッチがあれば押したくなる、取っ手があれば引きたくなる、ひげがのびたら抜きたくなる、とか環境やモノから自然と行動に結びついてしまうことを心理学の世界では、アフォーダンス(Affordance)というらしい。

 

いつもひげをのばすわけにはいかないけれど、プチプチ効果を得られる楽しみが増えたのはこの夏休みの収穫だ、と思っている。

 

ちなみに、プチプチは、国内トップシェアを持つ川上産業さんの商標で、同社ウェブサイトでは、プチプチ文化研究所というプチプチのPRのほか、商品開発等の情報もあり、楽しめる。「くうきとともだち」という企業コピーも、プチプチの癒しを感じとれ、好きだ。

http://www.putiputi.co.jp/putilabo/

真っ赤なヘソ。

出張先の東京方面が暑すぎたのか、

フリーの時間もあったから

太陽のもとを歩きすぎてたっぷりと

全身汗をかいたせいか、へその中を中心に

周りも真っ赤になり、かゆいわ、かゆいわ。

 

ラベンダーや北の国からの舞台として有名な

富良野市では北海へそ祭りが開催されるが、

へそのように北海道のだいたい中心に

位置するからそんな名前の祭りになっている。

(今年で50回目とのこと)

 

アボリジニーとの約束で、

もう登れなくなってしまうオーストラリアの

ウルル(エアーズロック)も地球のへそ、

なんて言われている。

ちょって出べそっぽいけど。

 

へそ、そのものは身体において、特別な役割が

あるわけではなく、むしろ遺跡みたいな

存在だし、普段あまり気にすることもない

わけだけど今の僕のように赤い、かゆいとか、

普段おとなしいひとが、たまには主張する

ことがあってもいいんじゃないかと思う。

 

君が君で君だ。(映画のおはなし)

映画が始まった瞬間、このテンションに2時間ついていけるか心配になった。仕事帰りでヘトヘトだったし、どちらかというと、ふわっとしたストーリーの映画を好む僕としては、えらいとこに来てしまったなぁ、なんて思ってたはずだ。

 

つい先日のできごとなのに、思ってたはずだ、なんて他人事のように言ってしまうのは、今では、この映画が心の中に潜む、ひとつの要素になっているからだ。なったというか、本来あったものを久しぶりに発見したみたいな感覚に近くて、実家に帰った時に小学生時代に読んでいた黄色く日に焼けた漫画本を見つけたみたいな感じかもしれない。

 

尾崎とブラピと龍馬の感情は、一般的には、「屈折した愛情」と言われるのだろう。コップの中のまっすぐなストローが水中では曲がってみえるのは、空気と水の屈折率が違うことにより、脳が都合よくニセものの曲がった姿を見てしまうためだ。彼らの住む世界や価値感と平均的な(僕の日常も)世界や価値感とは、屈折率が違うから、彼らの愛情や行動は曲がって見えてしまうのかもしれない。映画のコピーになっている、「この愛は異常か、それとも純情か。」で言えば、異常の方にあたる。

 

ただ、映画を観すすめるうちに、屈折率の違いはどうでもよくなって、まっすぐなものは、まっすぐで、まっすぐだ、という気持ちになってからは、ストーリーに溶け込みながら、運動不足な心の片隅を刺激されるように感じていた。

 

観たい映画の選び方はいろいろあるけれど、自分では気づかない強さを他人が引き出してくれるみたいな作品との出会いがあってもいいなと思う。こういう機会を与えてくれた、プロデューサーの阿部広太郎さん、監督の松井大悟さんに、感謝です。