わびさびつくひび。

ことば、おと、しょく、たびなど。

シーンとした会話。

三連休をゆっくりと過ごしている。実際には金曜日も有休だったので四連休だ。年末年始の連休はもっと長かったけれど、大掃除やら年賀状やら実家への挨拶やらで休みというよりは仕事ならぬ私事であっという間に過ぎてしまう。その点、いまはホントの冬休みという感じで、寝正月を取り戻しにかかっている。

 

長く家ですごしていると、長い付き合いの嫁との会話がもたない。お互い好きなことをしながら、必要最小限の声かけでほぼ一日が終わる。ほかの夫婦はもっと会話があるんだろうな、なんて思いながら、これはこれで心地よいわけだし、でも子供が独立したら、ふたりでどんな生活になるんだろうとか、少しの不安もなくもない。

 

糸井重里さんと歌手の岡村靖幸さんの対談をみて、話さなくてもいい幸せのカタチってあるんだなと思った。

糸井さんは、独身の岡村さんに結婚はいいよ、と勧める。それは好きな食事を夫婦無言で食べられるからだと言う。友人や同僚との食事は、どうしても気をつかって会話をしながら過ごさざるを得ないけれども、夫婦間では言葉なしに純粋に食事を楽しめる。だから、結婚はしあわせだと説くのだ。

 

沈黙は金、雄弁は銀、という言葉があるように、静かな食卓にも、会話のない夫婦にも、ことばにはならない信頼とか安心の空気があるのだろう。シーンとしてるのも会話なのかもしれない。物言わぬ食卓を楽しみたいな。

平成さいごでもなく。

新年明けましておめでとうございます。穏やかな2019年の始まりに、新たな時代へと向かう大きな期待とちょっとの不安を抱きながら過ごすお正月です。

 

昨年の夏から今年の春にかけたイベントや行動は、すべて「平成最後の」という枕詞のもと、価値あることのように、うやうやしく語られていますが、冷静に考えると平成が計画的に終わるだけで、ぼくたちの生活は、たんたんと始まるものは始まるし、終わるものは終わるわけです。

昨年は新しく始まったこともたくさんあった一方、あたりまえと思っていた大事なものが終わった年でもありました。たぶんこれからもその繰り返しなんでしょうね。平成であろうとなかろうと。

 

新年になると、目標をたてたり、抱負を述べたりするけど、年末にはすっかり忘れていたりします。これは決して意思が弱いとか、そうゆう訳じゃなく、環境変化が予想以上に早かったり、予想外のことが現実になったりして、年始のころの自分とは明らかに変わらずにはいられないことになっているから、陳腐化しちゃってるんだと思うのです。

 

今年一年は、

小さすぎるものは少しでも大きく、

大きすぎるものは少しでも小さく。

を実現できるようにしたいな、と思います。小さいものはアイデアをふりしぼって成長させなきゃいけないし、大きいものはアイデアをふりしぼって本質に光をあてないといけない。たぶん今年のというよりは、これからも続けなくちゃいけないことなんだろうな。

実り多き一年になりますように。

素直になれなくもない。

先日、ある飲み会でプロのコピーライターの方から、コピーを勉強している理由をたずねられた。これは初めてのことではなく、そりゃあ、全く関係のない業界で働いてるおっさんがまさかなぜ?と思うのは無理はないし、今までいろいろなひとから何度も聞かれては、自分なりの理由を答えてきた。

あるときは、コピーライターの書いた本を読んで感銘を受けたから、とか、あるときは、会社で上司に説明や提案するときに一番伝わる表現を磨きたいから、とか。こんな感じでそれなりに答えてきたのだが、なんかいつも、しっくりこない感じがしていて、特にこの間は、ものすごい違和感を覚えてしまったのだ。

またクィーンの話になるんだけれど、昔からクィーンの曲は好きだけれど、聴きすぎちゃいけない、クィーンにはまってますとは言えないと、なんとなく、クィーンに制限をかけていた。映画、ボヘミアンラプソディーが大ブレイクしている中、世の中のクィーン熱が沸騰し、息子もクィーンの曲を毎日かけたり、口ずさんでもいるから、好きか?と聞けば、好きだと答える。素直な気持ちに従うことは、コミュニケーションの一番近道であり、一番伝わる手段なんだろうなぁと気づくのだ。

来年は、なぜ、コピーを勉強するの?と聞かれたら、コピーが好きだから〜、とチャンドンゴンばりに答えよう。好きにフタをするとか、あまのじゃくになったりするのは、もう終わりにしよう。

 

よいお年を。

それでも風は吹く。

ボへミアンラプソディを観た。フレディをはじめ、4人の演技が本人達と錯覚するように物語が進む。完全なノンフィクションではないのだろうが、クィーンのヒストリーやフレディのパーソナリティが伝わってきたし、150分という僕にとっては長すぎるくらいの長さも、絶え間ないくらいの印象で流れる名曲の数々を大音響で聴いていると、あっという間に感動のラストシーンになっている感じ。

SNSではとなりのおっさんがWe will rock youにあわせ、足踏みしてうるさい、という苦情めいたコメントもあったけど、足踏みや手拍子はもちろん、一緒に歌いたくなるし、応援上映とか前提で作られてる気もする。僕は、指踏み、指拍子、鼻歌で乗り切ったけどね。

僕は、ボヘミアンラプソディ(曲の方)では、一番最後のAnyway the wind blowsのところが好きだ。なんやかんやあっても、ふわっと吹く風だけは、いつの時代も変わらないし、あれだけあっち行ったりこっち行ったりするジェットコースターみたいな曲にもかかわらず、少し間をおいて、このことばでふわっと締めくくる、カッコよさがある。

うまくいかないなぁとか、なんか思ってたのと違うぞ、なんて時にそれでも風は吹くよね、と、こころに風を当てると前向きになれる気がする。

あれ、クィーンで盛り上がってしまったけれど、今日は12月7日。やばっ、明日は、ジョンレノンの命日じゃないか、と気づく。

 

“Anyway the wind blows.”

 

細かすぎてもつたわる。

細かすぎて伝わらないモノマネ、復活しましたね。録画して、ひととおり観たけど、優勝した初出場のたつろうのネタは3本ともダントツ面白かった。日常の「あるある」を悪意なく切り取ったネタは最近の笑いの風潮に一石を投じたかもしれない。しかも、どれも尺が圧倒的に短いのがまたよかった。

1本目、のど自慢っぽくコンビニでタバコを注文する人では、「25番ラッキーストライク」、

2本目の自転車を撤去された人では「下高井戸?」、

3本目の空中に字を書く人では「いや、29」、

しか、自身のセリフを使わないくらいだから。

言い方とか表情とか設定とかとシンプルな言葉を融合させていて、細かすぎても、しっかりと伝わる要素が揃ってるから、自然に笑いが起こるんだろうな。ワードのチョイスもかなり考えられている。

ラッキーストライク」は、タバコの商品名で一番曲名ぽいし、「新高井戸」は東京の人にはわかる、わかるという感じである一方、東京以外の人になじみがないけど、地元でも想定外に遠くに保管されちゃう経験と照らし合わせてほぼ理解ができる。最後の「29」は、さとしの誕生日を30日か?と聞く友人に対して、いや、29と言いながら、数字を空中に書くネタだけど、空中に書く時は2が一番ダイナミックだし、9を発音するときの口先をとんがらせた表情が、30日じゃなくて29日だよと、すぐさま否定し、俺はちゃんと覚えてるんだぜという気持ちにマッチしている気がする。まあ、すべて勝手な解釈だけど、シンプルで伝わる表現には、必ず深い洞察や検証が伴っているはずだ。

ムーア風の法則。

羽田へ向かう飛行機の中。いつものように機内誌を読んでいると、吉岡里帆さんが出ているDICの広告写真が目に入った。そこは同社の川村記念美術館で、写っているオブジェは、ヘンリー・ムーアの彫刻だった。というか、そのとき初めてその彫刻家の名前を知った。

 

羽田で乗り継ぎ、高松へ向かう飛行機の中。すでに機内誌を読み終えたので、いつものようにスマホで映画をみる。ウディ・アレン監督・脚本・出演のタロットカード殺人事件(2006年)。大富豪役のヒュー・ジャックマンの自宅に招待されたジャーナリズムを学ぶ女子大生役のスカーレット・ヨハンソンが、部屋にある小さな彫刻に目を止めるシーン。ヒューはヘンリー・ムーアのものだと教える。この瞬間、僕は「はいはい、ムーア家のヘンリーさんのね」、とうなずくのだ。

 

僕は初めて知った言葉や情報をすぐに使いたくなるたちだ。使うと忘れにくくなる気がするし、知らなかったという事実に悔しさがにじみ出るせいか、そうしてしまうのかもしれない。こういうのを経験則的に僕は「ムーア風の法則」と呼ぶことにした。いくつになっても、知らないことを知るうれしさで興奮していたいなと思う。

—————————————

ロンドンを舞台にしたタロットカード殺人事件(原題はScoop)は、最初から最後までニヤっとするシーンばかりだけれど、特に好きなシーンをふたつほど。

 

マジシャンのウディが、スカーレットの誕生日にパンしかないレストランに誘い一緒に食事をするシーン。彼女は20ポンド(9kg)太るから、と食べるのを拒むが、ウディは、「僕は心配性でいつもドキドキしているから、エアロビやってるみたいに太らない」と返す。これ、自虐ネタを混じえたウディ流の優しさの表現だ。僕が太りにくい体質なのは、いつも妄想してる気質からきてるのかも。

 

ウディとスカーレットは、新聞記者の幽霊から聞いた連続殺人事件の犯人情報をもとに、探偵気取りでスクープを狙う。ウディが殺された娼婦の住んでいたマンションで聞き込みを行うも、あんた誰?と住人から聞かれ、とっさに、「大統領の陰謀をスクープしたワシントンポストの小さいほうのすご腕の記者だ」、と答える。とうぜん、「なぜアメリカ人の記者がこんなとこで、取材してるんだ」と聞き返される。これもナンセンスなんだけど、皮肉が入っていてクスッとくる。

 

ウディの作品は、やっぱり彼自身が出ているのが好きだな。もうおじいちゃんもおじいちゃんだけど、元気にまだまだ続けてほしい。

それでも水に流す。

新聞を購読していないので、なかなか新聞広告というものをリアルタイムに見ることができない。それでも話題になる広告は、誰かがtwitterですぐにシェアしてくれるので、とてもとても助かる。

そんななか、久しぶりに、わっ、これはすげーと、感じた新聞広告がある。10/29、宝島社が読売と朝日で別々に打った故 樹木希林さんの広告。

https://tkj.jp/company/ad/2018/

 

ひとつは、「あとは自分で考えてよ。」のキャッチとともに樹木希林さんの家族写真。

もうひとつは、アインシュタインよろしく、茶目っ気たっぷりの樹木希林さんのベロ出し写真。キャッチは「サヨナラ、地球さん。」

それぞれの広告には、樹木希林さん自身のことばが、ボディコピーになっている。ベロ出し広告では、死をどうとらえるか、どう向き合ってきたのかを、パァっと散っては、また春になると咲き誇る、さくらの花を例に日本人の心に流れている「水に流す」ことの大切さが語られている。「それでは、みなさん、わたしは水に流されていなくなります」というメッセージはあまりにも強い。だから、地球にサヨナラするというキャッチも、すーっと入ってくる。

f:id:ezowatton:20181121223129j:image

 

人生をちゃんと見ずに流してはいけない。

樹木希林さんのように、人生とちゃんと向き合って、忘れながら、許しながら、水に流せるような人生を送りたいものですね。